ランニングも、まるでランウェイへ向かうように
場面を思い浮かべてほしい。あなたはランニングに出かけようとしている。大会のためでもなく、撮影のためでもなく、ただ公園へ行くだけだ。スポーツウェアを選びながら、ふとこう思う。「きれいに見えたい」。挑発的でありたいわけじゃない。ただ、整っていたいだけ。けれどそのあとで、「美しさか、実用性か」という議論にぶつかる。そこでおなじみの言葉が聞こえてくる。「何? ランウェイにでも行くの? スポーツは健康のためであって、ファッションのためじゃないでしょう」。
その理屈はもっともに聞こえる。楽なら正しい。実用的なら賢い。そうして多くの女性は、「きれいでいたい」という気持ちをそこで切ってしまう。まるで美しさが、場違いな気まぐれであるかのように。
リリスの答えはこうだ。あなたが外の世界へ出たのなら、それは「ただなんとなく」ではない。それはあなたの出場であり、登場であり、働きかけなのだ。もっとも直接的な意味で、世界はあなたを読み、あなたも世界を読んでいる。人はあなたを見て感情を抱く。賞賛かもしれないし、嫉妬かもしれない。それは相手の選択だ。けれど、あなたが発している信号は、あなた自身のものだ。
外へ出るたびに、ひとつの束が集まる。自信か、くすみか。関心か、無関心か。敬意か、軽視か。もしあなたが「まあまあ」で出ていけば、世界もまた「まあまあ」で返してくる。気分も、注目も、偶然の重なりも、あなたへの扱いも、すべてが「まあまあ」になる。もしあなたが愛と賞賛の流れに入りたいのなら、ならばそれにふさわしい姿で出ていけばいい。賞賛が自然に生まれるような姿で。この流れは有益だ。手で触れられなくても、人生にも仕事にも役に立つ。
日常のレベルでリリスに仕えるということの本質はシンプルだ。流れを動かすこと。恵みを待つことではない。「私には関係ない」と自分に言い聞かせることではなく、その日が正しい流れに乗るように、自分を整えることだ。流れとは、単に「美しさ」のことではない。あなたの気分であり、整い方であり、健康であり、そして世界があなたの中に「見守りたくなる人」「支えたくなる人」をどれだけ見いだすかということでもある。
大切なのは、ランニングを芝居に変えることではない。与えられた贈り物を軽く扱わないということだ。美しさと健康は、「特別な日」まで隠しておくために与えられたのではない。試されるのは、まさに日常の中である。仕える意志をもって自分の魅力を保つとき、あなたは自分の力を養うその回路を閉ざさずにいられる。
極端にならないための実践
- 体にとって心地よく、それでいて見た目にもきちんとしているウェアを選ぶ。清潔で、整っていて、自分のサイズに合っていること。
- ひとつだけアクセントを加える。色でも、シルエットでも、髪型でも、アクセサリーでもいい。自分を「整った状態」にしてくれる何かを選ぶこと。
- 外へ出るときは、ただ「走る」のではなく、「その場の空気を決める」という意識で出ること。あなたの姿が他の人を励まし、動機づけるなら、それもまたこの道の一部だ。